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DOS/V機との決別とAppleとの出会い


2002年08月10日
1990年から1997年までApple Computerの販売とサービスに携わっていた時期、わたしにはとても充実した時期でした。
もちろん、その頃はそんな思いは微塵もなく、新しいことを覚えることでお客様へそれを伝えてApple Computerを好きになってもらい、仕事にプライベートに使いやすく愛情の持てる機械としてMacintoshを購入してもらうことが主眼だったのです。
 
1989年、それは大阪ナニワ商会「リトルNASA」でのこと。
初めて見たApple Macintosh Plus。
その時代、DOSが全盛で私の周りだけでなく世間はPC98旋風が吹き荒れていました。PC98(キューハチと呼ばれていました)はビジネスにホビーになくてはならない存在だったようです。
今のようにWindowsのようなインターフェイスを持たないコマンド主体のえらく使いにくいOSだったのですが、その呪文さえ覚えてしまえば今まで出来なかったことが出来るようになる。そんな期待を抱かせたコンピュータでした。
 
一時期、98互換機を使った時期もありました。しかし、ほとんど意味不明の呪文を覚えることに疑問を持っていた頃、「リトルNASA」で出会ったMacintosh Plusは新鮮な驚きと同時にかなりの親しみを覚えたのです。
その頃のパソコン(本来はAppleが提唱した言葉)のソフトウェアと言えば今と同様ワープロ・表計算・データベースがユーザーニーズの主流でした。まだインターネットという言葉すら世間では知られていなかった頃です。
唯一、外界と繋がる手段として草の根ネットと言われたパソコン通信が今のインターネットと同様の役目を担っていました。
 
わたしもワープロ専用機であるEPSONの機械を使って1200bpsのモデムを接続し、その頃はまだ無料で使うことが出来たNifty-Serveを見て回ることが毎日の日課となっていたのです。
画面はすべてテキストオンリーで、画像表示など望むべくもありません。今の掲示板に近いものがパソコン通信でやっていたことだったのです。
 
コンピュータに望んだこと。それは精緻なグラフィックスでした。絵を描く、写真を加工する、動画を取り込んで編集する、三次元の画面をグリグリ回すことを期待していました。
しかし当時のパーソナルコンピュータには荷が重すぎました。ようやく市場に出回り始めたスキャナーは300dpiで20数万円。取り込み時間は72dpiで取り込んで数分。最高解像度の300dpiで取り込もうものなら30分はかかるという大層な代物だったのです。
 
もちろんパソコンもその時代はHD(ハードドライブ)が付いていない機械も多く、2ドライブFD(フロッピードライブ)だけで駆動していたのです。搭載メモリはPC-98で標準384KB(!!!)最大実装768KB(!!!!!)というのが普通でした。
電卓のようなメモリーでOSを読み込み、アプリケーションを動かしていたのです。16ビットCPUの頃は今のようにリニアにメモリを使うことが出来ないメモリの分断があり、1MB搭載したければアドレスを指定してからでないと使えない。それは単にワークエリアとしてのメモリ空間だったのです。
 
そんな中でApple Macintosh(Macと呼びます)は搭載しただけリニアにメモリを使うことが出来、アドレスの指定もせずにOSとアプリケーションがスマートに展開できる32ビットCPUを持ったコンピュータでした。
今で言うところのグラフィカルインターフェイスを持った唯一のパソコンです。
デスクトップメタファー。仮想の机上を構築し、ふだんの生活に近い形で作業できる非常に優れたインターフェイスを持っていました。
メモリーがリニアに使えると言ってもその当時の最大搭載メモリは4MB。しかしPC98と比べればかなりの容量を搭載出来ました。
デスクトップアクセサリーといったサブアプリケーションが同時に使用可能だったのもMacの優れた特質です。
もちろんオプションでHDもあり、1ドライブのフロッピーディスクと相まって新しい時代を予感させるに充分なパーソナルコンピュータだったのです。
 
しかし、その頃のメモリ価格は1MB3万円(!!!!!)ハードディスクドライブ20MBが20万円以上です。恐ろしい価格でしたねえ。
 
続く・・・・・・・・

2002年08月22日記述

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